『ゆとりですがなにか』の最終話で、童貞の小学校教師・山路一豊(松坂桃李)が、ついに「性教育」の授業をしました。
「童貞のDV野郎が性教育?…チャンチャラおかしいわ。」
「性教育にかこつけて、セックスしたかったんですよ。山路はぁ!獣ですよ。ああ…セックスしたかったぁ。」
とレンタルおじさんの麻生(吉田鋼太郎)さんに向かって号泣していた、あの山路先生がです。
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黒板に”思春期”と書きながら、
「これまで保健の時間を使って、体の成長について勉強してきたね。覚えてる?発育の仕方や時期は一人ひとり違うこと…はいっ、なんと読みますか?」
「おもはるき!」「ブブッー」「わかった!ちょうしんき!」笑いに包まれる教室。
「違います。正解は…し・しゅん・き…”ししゅんき”と読みます。今日は思春期について、男の子、女の子、それぞれの変化を勉強します。」
「思春期になると外見も中身も、女子は女の子らしく、男子は男の子らしく成長します。昨日まで泥んこまみれになって遊んでた男子と女子が…」
黒板に”異性”と書きながら
「お互いを異性として意識し始める。これが思春期。とても自然なことだし、成長するために必要なことです。
男子はより男らしく、女子は女性らしく、それぞれ違う道筋で、大人になるんです。」
「思春期には脳から出るホルモンが体に働きかけ、様々な変化が起こります。
男子は精通。女子には…あぁ…な、な、何というかですかね…あぁ…ふわっとした…た、たわわ…じゃない、あの…」
黒板に書くおっぱいの絵を何度も書き直す山路先生。
その様子を見て笑う生徒。見かねた教頭先生(原扶貴子)が続けます。
「女性は体が丸みを帯び、やがて初経が起こります。これは、赤ちゃんを産み、育てるための準備です。
新しい生命が生まれる確率は、約1億分の1。つまり、ほとんど偶然の出来事なんです。その偶然がなければ、皆さんは、この世に存在しないのです。」
いつの間にかおっぱいの絵を完成させた山路先生にバトンタッチ。
「いいか、もう一度言うよ。思春期は立派な大人になるための準備期間です。
胸が膨らんだ膨らんでない、毛が生えた生えない、そんなことで、他人を笑ったりしないように。はいっ、質問ある人?」
坊主頭の森君が手を挙げて「山じぃはまだ思春期ですか?」
「う~ん、どうかな?まだ生えてないかもしれないな。」笑う生徒たち。
「あっ、ただ、ただね。果たして、完璧な大人っているのかなって先生思います。
例えば、来年、山じぃ30です。みんなにとって30歳っていったら、立派な大人だよな。でもね、
…20年後、みんなの20年後、自分たちが30歳になった時、きっと、こう思うはず。
う~わっ、まだ全然子どもだよって、山じぃこんなだったのかって。
彼女いねぇとか、バイト行きたくねぇとか、まだ童貞だよとか、山じぃと一緒かよとか。
みんなのお父さんとお母さん、完璧な大人ですか?
寝坊するよね、酔っぱらってケンカするよね、オナラするよね。」笑い出す生徒たち。
「体と違って、心の思春期は、生きてる限り続きます。
だから、大人も間違える。
怠ける、逃げる、道に迷う。
言い訳する、泣く、他人のせいにする、好きになっちゃいけない人を好きになる。
……すべて思春期のせいです。
大人も間違える、間違えちゃうんだよ。だから…
…他人の間違いを、許せる大人になってください。」
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ります。
「…というわけで、性教育の授業は以上です。はい起立!礼。」
授業が終わると同時に「山じぃ遊ぼう!」と生徒たちに囲まれる山路先生。
先生として、人間として、子ども達に認められているんだなぁ、と思わせるシーンでした。
「ゆとり教育」の授業のときといい、今回の「性教育」の授業といい、子ども達へのメッセージなのに、大人になった我々の胸に刺さるものがありますよね。